2015年3月27日金曜日

3.28(土)<第一回かぼちゃ会議>公開シンポジウムの「配布資料」3枚

各位殿
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第一回かぼちゃ会議
⭐公開シンポジウム
⭐️3月中に死ぬ予定で死に仕度をしていた禅僧が、急きょ予定を変更して済世救民に東北地方を奔走したという話を聞きたい。
あの晩、引き潮で自宅屋根の上に乗ったまま真っ暗な沖から見た海岸線の街の灯りと、その禅僧の死に仕度とはいったい何処か接点はないものだろうか。
第一回テーマ「東日本大震災と死生観について」
⭐️ゲスト・甲野善紀( 武術研究家/ 松聲館主宰 )
⭐️司会進行・長船青治((社)母と子のセンター )
⭐️日時・3月28日土曜日PM1:30開場2:00開始〜3:30終了
⭐️場所・東京都港区西新橋1丁目21ー8
新虎ビル2F 「イメージユニオン」 会議室
Tel: 03-6206-1101
⭐️最寄り駅・JR山手線「新橋駅」烏の森口よりニュー新橋ビルと港区生涯学習センターの間を西へ直進、日比谷通り西新橋2丁目交差点を越え100メートル( 小諸そば2F )
⭐️定員・20人
⭐️参加費・一般千円( 学生500円 )
⭐️主催 / (社)母と子のセンター
⭐️参加予約・070-5300-0161 又は、
iOS版Blog長船青治 http://sosafune-2cdcc3.lolipotouch.jp のお問い合わせフォーム
または、pencil@jca.apc.org まで
⭐️(社)母と子のセンターとは、東日本大震災緊急支援市民会議が福島第一原発の放射能災害対策本部として法人化されたものです。
⭐️リンク先
「松聲館」
「東日本大震災緊急支援市民会議」
「長船青治のプロフィル」
http://www.shouseikan.com/
http://www.jca.apc.org/~pencil/siminkaigi.html
http://www.jca.apc.org/~pencil/sosafune2.html


⚪️ <第一回かぼちゃ会議> ご挨拶

  4年前の3月11日の福島第一原子力発電所の過酷事故を受け<東日本大震災緊急支援市民会議>を立ち上げてから2年前の4月に第26回目の支援物資搬送ボラのあとすでに2年間が経過しております。

  本日、<第一回かぼちゃ会議>に甲野善紀先生をお招きし、よもやま話に花を咲かせていただいて私たちのこれからのレジスタンス運動のヒントにしたいと思っております。

 短い時間設定ではありますが、この企画を立案してから2度、先生にお電話させていただいたのですが、五里霧中の山道で何か道標のような水銀灯の淡い光の

 ようなものを感じてこれから進むべき道というより、何かこのまま幻想に浸っていたいような幸せな気持ちになったものでした。

 しかし、これではいけないと、このままではいけないのだと自分自身を鼓舞して、心眼を開き、耳を澄ましてみたいと思います。

                     2015年3月28日
   
                         (社)母と子のセンター
                            長船青治


+++++ 長船青治の2011年3月11日から ( Twitterより) +++`


甲野先生のTwilogで2011年3月11日から31日までのツイートを4年振りに読んでみました。

当時の私はたまたまというより長い間と言っても15年位の間、まともな仕事らしい仕事をしていなかったので決起するには十分身軽でした。

つまり身軽だったから決起できたと言っても良いでしょう。

自宅の駐車場には9条改憲阻止の会の1.5トン、コンテナトラックがあったのでほとんど反射的に運営委員会で「全学連と全共闘の9条改憲阻止の会でも被災地に支援物資を送りましょう。」と提案したのでした。

しかし、その時、東北の被災した人々は何処に避難しているのかさえまったく情報がありませんでした。


第一回目の支援物資搬送行動はもともとフクイチの事故前から福島県で昔からあった反原発の市民運動で「ハイロアクション」という団体の市会議員とやっと連絡が取れたからということでいわき市の老人ホームを訪問しました。

「略称・市民会議」としての被災地支援行動はこの一回で終了する予定でした。


しかし私の今まで一度もやったことのないボラに対する漠然としたイメージは完全に不完全燃焼だったので、何かがおかしいと、冗談じゃない、もう一回行かせてくれと今度こそ寒さに震え灯油も底を突いて

食べるものも箸も茶碗も不足し医薬品もない交通の手段もない一次避難所に必ず支援物資を届けたいのですと、阻止の会の老兵諸賢を前に大声で訴えたのでした。


2011年3月11日から4日経ってから「反射的に」と言ったって何というか鈍いと言われても仕様がないのかとは思います。

もうこの間にえげつない人々が銀行強盗やら空巣やらもっと言えば人間としてやってはいけないことまでやって荒稼ぎをしたと誰からともなく被災地で聞いたものでした。


「道路は地震で寸断していて被災地に入ることはできません、」とテレビニュースで伝えているその被災地の映像に報道車がゴロゴロ写っていたのは何だろうと当初は然程には疑いもしませんでした。

1週間ほぼ、毎日、緊急の市民会議を新宿4丁目の「九条改憲阻止の会」事務所で繰り返し開いては、支援物資を25万円分用意して実際に東北自動車道に乗った時は「すわっ、カクメイ!か。!と42年振りに一人で歓声をあげました。


この4日間のあいだに何がいったい起きていたのかはまあさて置いて、戒厳令下で桜井市長がYoutubeで発信しただけで自衛隊の大型戦車や速射砲を積んだジープが市役所を取り囲んでいた光景は

異様というか呆れたというか、何のために自衛隊は来ているのかと思ったものでした。

まるでバクダッドで市街戦でもはじまるような物々しい空気でした。

マイカーで80キロ圏外へ逃げ出そうとして6号線がパニック映画の1シーンのようになった写真が市長室に飾ってあった。

そう言えば4日間のあいだ大宮料金所は東北から逃げて来る人々のためにゲートを開放していたと後から誰からともなく聞いた。

道路公団の中にもモノノフの心を持つ高官がいたのだろうと一人で納得した。

そして誰もいなくなったかのように見えた浜通りの町の外れの陸上競技場の体育館に500人収容した第1次避難所があった。

それが分かったのは3ヶ月程経ってからでした。

市の放射能災害対策本部がある社協の体育館で甲斐甲斐しく働く優しいボラ職員がそっと耳打ちして教えてくれた。

なぜ「そっと耳打ち」だったのか、理解できなかった。


なぜ3ヶ月も経ってからなのかと思うだろう。1次避難所がどこにあるかをボラには教えるなという上からの通達があったのかも知れない。


それは1次避難所に収容された被災者の個人情報や精神的な保護のためだと社協の職員に諭された記憶もある。

「それは何か変でしょ。」と食い下がった。

「我々は、元・全学連と元・全共闘の全国から集まった義援金で来ているのだから、」と食い下がった。



小型トラックのコンテナに入っている東京のP生協や関東圏の農業組合生産法人から無償提供された野菜や果物やショートケーキを「1日でも早く新鮮なうちに直接、1次避難所の被災者たちに手渡したい。」と訴えた。


そうしたら、そこにいた役人だか誰だか知らないがこう言われたのだが、しかし、それはその後どこの行政の災害対策本部でも同じことを言われたのだが、

要するに「ショートケーキの数が500人全員分ないから不公平でしょう。」とね。


ほうれん草やジャガイモもリンゴやバナナもそれぞれ500家庭分に「500袋のビニール袋に小分けにして持って来てください、」と言われたのです。


確かに理屈ではその通りである。

そのために東北地方のたくさんの災害対策本部の支援物資置き場の体育館の中でたくさんの生鮮野菜や食料や果物やショートケーキやなんかがそのままそこで被災者の手まで届かず腐ってしまったと誰からともなく被災地で聞いた。

もしこのことを今まで支援物資に生鮮野菜や果物や食料を無償提供してくれた団体・個人のかたがたが知ったらいったいどう思うだろうか。


第一、目を真っ赤にして支援物資を無償提供してもらって回り自分の生活も家庭の経済のことも省みずへとへとになってピストン輸送に明け暮れた

数ヶ月間はいったいなんだったんだと思う。

だけども我々はもっと早い段階に、4月の何日かに石巻市の災害対策本部からではなく石巻市立小・中学校のどちらだったか小さい方の建物でより沿岸部に近い方でよりダメージの大きい方の

学校へ東京から駆けつけた一人の無名の医師からの誰へというのではない公開SOSに応えて突っ走ったのだった。

手応えはあったがまだ何かが変だった。

一時避難所だった校舎に500人が泊まっていたので「われわれも泊めて欲しい。」と言ったら断られた。

くたくただったので「それでは校庭の端っこで、トラックで寝るから、」と伝えた。

そもそも500人分の食事を何で日本人が作らないのかと思った。

なぜか500人分の食事係のボラがパキスタン青年たちだった。

ピースボートのゼッケンを着た女性に「(ピースボートは、)何人来ているのか。」と聞いたら「4人です。」答えた。

南相馬市の櫻井市長と何度か話すことができた。

「最初の3週間は誰も来てくれなかった。それでも個人ボラが4〜5人いた。」と言われた。


何がどうトチ狂ったのか、2011年の4月に入るとは週に2回、東北をピストン輸送していた。

最終的に26回やれたのは全国の元・全学連と元・全共闘だった人々から集まった250万円の義援金のおかげでした。

しかしこの金額位のボラは個人でやったという事例はいっぱいあるようです。



もう一度、最初に戻ってあの時、少なくとも4日は過ぎていたが1週間以内で、それでも物見遊山でも原発10キロ圏内の双葉町の無人の街へ行こうという若者たちは相当すごい奴らでした。

ただしぼくら老人グループはいや私は自作の腕章を左腕に巻いて「救援」と書いた。

これが私が決起した時のモチーフだったように思います。


3月中に死ぬ予定で死に支度をしていた禅僧が急遽、予定変更して済世救民に東北地方を奔走したという話を聞きたい。

あの晩、引潮で自宅屋根の上に乗っかったまま真っ暗な沖から見た海岸線の街の灯りとその禅僧の死に支度とはいったい何処か接点はないものだろうか。

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+++  甲野善紀先生の<2011年3月11日から3月 31日までのTwitterより >+++


とにかく放射能に対抗するには、砂糖を含む食品は絶対にやめたほうがいいでしょう。それに、果物も摂らないほうがよさそうです。味噌汁にワカメや昆布をたくさん入れて飲み、体を締めておくことが大切なようです。自然塩もときどきなめたほうがいいかもしれません。

いまさら悔やんでもしかたないが、頭の切れる政治家なら、地震直後に対応が万全かを、利害に囚われない専門家を派遣して調べさせ、すぐに発電機やポンプを

自衛隊かアメリカ軍に依頼して運んでいただろう。そうすれば、被害は もっと早い段階でなんとかなったのではないだろうか。

こんな思いで、過ごす夜は初めてだ。もし自分が 身を挺して、福島原発のトラブル止められる立場なら、すぐに決心するだろう。

特攻隊で突っ込んで行った隊員の気持ちが まさかこの年齢になって これほど身に染みるとは庭に出て、庭の落ち葉を見て、何かまるで別の世界に来ているように感じた。こんな感じは、陽紀が生まれる前に一度似た感じがあったが、あれ以来だろう。


とにかく人間は、プラスチックと原発をこの世に出し、それにもちろん農薬等も出して、もう自然に対して取り返しのつかない罪を犯してしまった。

その時代に生まれている以上、自分も同罪であることは、かねて覚悟している。

すでに私の家から何キロも離れていない場所での放射能の数値が、昨日に比べグンと上がったり下がったりしている。西の方に縁のある人は行った方がいいだろう。

特に若い人は…。私はというと、ますます落ち着いてきている。


この山岡鉄舟、そして同時代の西郷南州にせよ、河井継之助にせよ、また当時は殆ど無名の武士に肚が据わっていた者が多数いて、数々のエピソードを残している。

そうした人々のエピソードを繰り返し読んだお陰で「かくありたい」という思いが培われていたのだろう。そして、武術の稽古のお陰。

体を使って、それもいわゆる、科学的トレーニングではなく、足を踏ん張らず、重心が下腹に自然と落ちるように、という工夫をずっと行なってきた事が、いつの間にか、

このような先人の生き方に程遠いとはいえ、後をついていけるようになったような気がする。

この際、将来のある若い人達は西の方、四国や九州、山陽、山陰へ行って、増えすぎた竹を伐ったりして、農業の手伝いをし、荒れた里山を再生したらいいのではないかと思う。


しかし、考えてみれば鳥や動物達は、常に身ひとつだ。何千キロを渡るキョクアジサシにしても。メキシコ湾を渡るルビー・ハミングバードは食べだめをしてエネルギーを

貯えるというが、身ひとつであることには変わりない。

それにしても本当にもどかしいのは原発への対応だ。いま問題になっている4号機の使用済み燃料の入っているプールに水を入れる事など、完全に決死の覚悟をしてホースを持って入れば素人にも可能な事ではないのか。

サッカーで「サムライ・ジャパン」などと称して煽っておいて、現実には本当に危機的な状況で、その「もののふ」の精神を発揮させられないのは悔やんであまりある。

しかし、現在の状況では、そういう決死の行為は、とても叶いそうもない。

これは人間の命が何より大切で、その人間が自分の命と引き換えにしても、それ以上の思いを果たすことを出来なくしてしまっている社会になっているらしいからだ。

とにかく今、表向きがダメなら秘密裏にでもいいから呼んで欲しいと思う。

そして、そういう空気がなくなった事と、人生の最後を自宅で静かに送りたいと思っても、その人の、その願いを家族が貫くと、その家族は自殺幇助の罪になりかねないようになった現代の日本の制度とは、完全にリンクしているように思う。

そして、その代わりに人間にとって最も大切なものは「命である」というじつにわかりやすい、そして身も蓋も無い、物質的、現象的な事を持って来たのだろう。

そのため、とにかくどのような状態でも、より長く生存させれば、それが善だという風潮になった。

福島第一原発のニュース報道を見ていて、どうしようもない虚無感に襲われる。

身を省みず作業したい人もいるだろうが、それは決して許されない。

そういう時代なのだ。これでは私がどれほど決死の作業を願い出ても無理だろう。もちろん可能ならいつでも行くが…。

そして今日は、昨日1日の心の振幅の大きさに私自身の精神が、さすがに持たないと、私自身の内部の何か(それが脳なのか、身体そのものなのか分からないが)が判断したのか、私にテレビを見させようとしない。

そう、思って、一段とさらに深く潜ろうとした時に、さきほどまで、東電や、政府、原子力保安院に、抑えても、抑えきれない怒りが、どうしようもなくあったが、その怒りは、

「だから、言ったじゃないか」と、そう言いたい欲望につながってしまいそうな事をハッキリと、感じたのである。

これはまずい!いま、私が真に望んでいることは、何なのか、それは、現段階での、被害の最少終了であるはずだ。

であるならばその結果が少しでも、叶う方向に向かうためには、その結果の、足を引っ張るような事だけは、決してしてはならない!

「人の心(思考)は非常時にこそ鍛えられる」とは、野口裕之先生の名言だが、この「鍛える」という事の意とするところが何かはきわめて難しい。

いまさら電気もプラスチックもない生活に帰ることは無理にしても、人が生きるという事、その生き方について、いままでとは違った視点で向き合う人が、ある程度は出るような提案をしなければならないと思う。

そのため、今回の原発のトラブルなどの場合、かねてから原発反対を称えていた人達の中に、ともすると生じがちな思いは、原発のトラブルの事態の深刻化に乗じようとする思い。

これは、人としての感情の働きからいって無理からぬところで、かねてからの自分の主張が証明されているわけだから、この際、原発の危険性をよりアピールしようとするのである。

しかし、これは悪魔のささやきでもある。私が宗教という事を、もっと考えてもらおうと、多くの人達に勧めているものに、実録大河小説『大地の母』という本がある。

それは、制度としての身分制度は無くなった日本だが、実質的に庶民の上に君臨している政財界などの権力者に対する嫌悪感に共通するものがあるからだろう。

まあ、こうなってみると日本が世界中に原発の危機を訴える役目があったということだろう。キリスト教の原罪という考え方には、いままでなじめないものがあったが、これだけ環境を荒らして生きざるを得ないのが人間のサガならそれもなるほどと思う。

福島のトラブルに加えて、27日知った福井の『もんじゅ』の実態が心を塞ぐ。

人にたとえれば、脳死状態でまったく発電も出来ないものを廃炉にも出来ず、年間500億もかけて、この先延々面倒を見続けなければならないとは、そのバカバカしさと恐ろしさに気が遠くなりそうだ。

しかし、まあ農家は気の毒だ。それに好きな東北の森が放射能を浴びていると思うと堪らない気持ちになる。

福島は依然として予断を許さない状態なのに、この事故は微妙に第2段階、つまり今後、いかに事故への批判をかわして原発を存続させるか、という方向に向かいつつあるような雰囲気だ。

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