2010年2月5日金曜日

私のパレスチナの風の又三郎

年令は、80才くらいで、ニポンの伝統芸術のある流派の会長で芸術院恩賜賞をもらうほどの人から破門されて 20年振りくらいに会の展覧会の葉書が来たからと隣人は上野の都立美術館へのこのことまた行ったものだった。そしたら、ちょうど会長が弟子たちに囲まれ何 か教えをたれていたところで、ちらりとアタシを見て、「 誰だ、RIKAを呼んだのは、」って誰にともなく言ったんだって。まあ何処の団体でもよくあるこ とさ。少林寺拳法では昔の高段者の道院長だって開祖・宗道臣に破門されると、直ぐに白帯を締めて再入門したというのをよく聞かされた。しかし、彼女は途中 からロックに目覚めて、忌野清志郎とアタシは絶対に血がつながっているとか、いつか、きっとアタシを迎えに来るんだとか、おかしなことを毎日うわ言のよう に言い出して、おかしくなって、ちょっと変なままいろんな絵を描きだしたのだった。昔、中学2年の理科の実験でクラスの全員が鉱石ラジオの製作キットを購 入させられたような遠い記憶があるのだけど、たぶんそんなに高価なものではなかったように思うのだが、教科書の次のページにはゲルマニウム・ラジオのこと やトランジスター・ラジオのことや真空管が1本だけのラジオのことに少し遠慮がちに触れてお茶を濁していたような気がする。先生は、いくぶん遠慮しなが ら、お父さんやお母さんに言って買ってもらえる人はぜひ挑戦して製作して見てくださいと言ったものだった。ゲルマニウム・ラジオを作って学校に持って来た 生徒は3〜4人いたと思う。ぼくもその中に入っていた。その後、トランジスター・ラジオを作ってまた学校に持って来た生徒も3〜4人いたと思う。もちろ ん、ぼくもその中に入っていた。その後、真空管が1本だけのラジオを作って学校に持って来て先生に見てもらい、何かアドバイスしてもらった生徒もたしか2 人くらいいたと思う。2人のうちの1人はぼくだったのも覚えている。でも、その後、真空管が3本のやつと5本のやつと10本のやつを作って、父に、「 ぼ くは、ラジオ屋さんになる。 」と言ったら、父は、折角苦労してアルミのシャーシーに穴を開けて作った一番、部品代のかかった10本の真空管ラジオを何や ら怒っている訳でもなく、ぼんやりと立ち尽くしたままのぼくに、理由もよく告げないまま、家の前の馬車道の反対側の川に投げ込んでしまったのだった。ぼ、 ぼくは、翌日から、真空管ラジオを作ることをしばらく止めたのだったけれど、1年後に私立高校に入ると理科クラブに入部して、親には内緒でアマチュア無線 機の分解と組み立てを始めたのだった。しかし、入学して2ヶ月くらいして、当時の団塊の世代は1クラス70名で11クラス中で成績は上位70位以内であっ たため、今度は学校の方針で、「 君たちは、一切クラブ活動を禁ずる。」と大学進学のための特別扱いのクラスに入れられたのだった。どういう3年間だった かって、それは、もう。

2010年2月3日(水)

「  メデイアスタジオSANA 」の川島さんから「 イラクSANA衛星テレビ局 」のページで「 今週の配信映像「 電気と水を!ーバグダッド・アル・サ ドーン地区住民にインタビュー 」のサンプルが見れるというので行くがダウンロード画面でアプリをQuickTimeに指定しても見れなかった。たぶんま たWinで作ったもので拡張子が限られているのだろうと諦める。「 平和フォーラム 」の八木さんから1・30日比谷野音の全国集会に6000人集まった 写真をアップしたというので見に行く。ほおうっと観客の顔にしばし見蕩れる。2日前に「 世に倦む日々 」の作者氏が「 平和フォーラム 」のことを、「  よく分からない、」と書いていたのであるが、彼ほどのネットワーカーが何故だろうかと思う。たぶん、彼が「 分からない、」というのは大同団結した大手 労働組合や日教組や原水禁国民会議など明らかに日本共産党の傘下にある団体の集会なのに、何故か政党として壇上に立つ人に日本共産党を代表する人がいない ことを言うのだろうか。塩見さんからのメールだと「 プラス市民運動団体 」となっているのだが、そんな取って付けたような共催団体というのもますます「  分からなくなる、」だけなのにね。だいいち「 1万人集れ! 」というのは、ビラに書くスローガンとして正しいのかなあ。結果として1万人以上集まった というのなら凄いことだけれど、そもそもそれは実行委員やオルグの内部スローガンではないのか。そもそもが、動員されて参加するというより自然発生的に自 発的に参加しなければならない、あるいは、どうしても参加して見たいというような社会全体のムードや欲求が先ではないのだろうか。もっとも、私は、私的な 家庭の重要な用事( 風呂釜とガスレンジと瞬間湯沸かし器が同時に壊れ、意地悪な地主の性で下水道に繋げてもらえない、かつ万年詰まりかけ状態の水洗トイ レと白蟻に土台を食われて傾いた家の修理など、) が続いて参加できなかったのであるが、前日迄の4日間の国会裏の座り込みにも参加できなかったので何も言えないのであるが、( 参加された同志たちに対し て、)しんしんと夜が更けて行くのに眠れなくてまたこんなことを書くのだった。

2010年2月1日(月)

門 前仲町駅から歩いて7分の富岡2丁目の7階立で昭和53年建築の分譲マンション( エレベーター有り )の101号室( 42.1平方メートル )2K(  6畳+6畳+風呂+トイレ+キッチン )で管理費滞納が75万くらいあって売却基準が、460万円というのを見てやはり経年相応であり住人の暮らし振り も丁寧でいい感じだった。裁判所競売執行センターが現況調査時には毎月の家賃10万の賃借人が住んでいたというのだが、マンション住人の話だと先月引っ越 したというので部屋の痛み具合などリフォームに幾ら位かかるか見てみたいと思ったのだが、どうも見れないらしい。マンションの概ね耐用年数は60年と言わ れているはずなのであるが、裁判所の資料の残存耐用年数は約14年となっているがその根拠が分からない。今日の麻布十番の8階立のほぼ同条件( と言って も残存耐用年数は9年しかない、築40年経過でかつ地上権転貸型)の分譲マンション( エレベーター有り )を見て、こっちのほうが立地条件が断然いい感 じなのである。売却基準は、485万なのであるが、こちらは管理費滞納もない。しかし、どうも競売物件というのは皆、売り主の協力が得られないのは当たり 前で大体は、法的な強制執行に頼らねばならないらしい。どうもその他いろいろと問題はありそうだが、足下のお気に入りの黄土色をした革靴のオーストラリア 製の革って通常の安物の革靴に比べて雨に弱いような気がする。靴下もびしょびしょであると思っていたら隣人の葡萄色の革靴もぐちょぐちょで足が冷たいと訴 えている。おまけに、朝、出がけには暖かいと言っていた豹柄のコートもみぞれ混じりの冷たい雨に濡れて地下鉄大江戸線や半蔵門線で座る時にいちいち脱いで 風邪を引きそうだとぼやいていた。おまけの今日のとどめは、住居表示を間違ってお目当ての目黒区1戸建て( 180.6平方メートル、駐車場と庭と物置き 付き )借地権で2階建て7LDKで、何と835万というのを見損なったのだった。いやいや、登記簿上の住所と行政の住所が違うなんて基本的な認識を私 は、40年前に土地家屋調査士の仕事とは云え他人事のように聞いていたのだろうと、お前なんか死んだほうが良いと競売などと志の低いと、黒い眼をまんまる くさせ、行き交う都会の人々に聞こえるように遂に高級住宅街の路上でヒステリ−を起こしてしまった。

後記・目黒区で借地権でも835万というのは今日でもあり得ません。よく読むと持ち分の競売でした。

2010年1月30日(土)

昨 日の朝届いた新品の長府製の石油バーナーと風呂釜のセットを自分で設置し終わったのがちょうどお昼頃だったが、タイマーを回してもバーナーが着火しないの で、メーカーで紹介してくれた村山の業者に電話したら20分位で熟練工みたいな紺色の作業服を着た年配の人が来て、「 なあ〜んだ、旦那さんが設置する時 に空焚き防止装置のコードを踏んだのでしょう、抜けてますよ。」と言われた。それで落着したので、出張料は要らないというので長野から一箱送って来た林檎 を3個お礼にあげた。昨夜は、何だか生地のお湯も真新しくて好評だったが、浴槽と風呂釜の高さがいまいち合ってないので、ブクブクと気泡がでていたので、 狭い所で結局もう一回外して、浴槽をずらして浴槽の下にある元々の米軍ハウスだった時の作り付けのタイル製の浴そうの下の土台がどうなっているのか未だに よく分からないのであるが、タイル製の浴槽の3分の1は壊れて瓦礫状態なので髪の毛と泥とタイルのかけらと古い歯ブラシや昔落とした軽石なんかもビニール 袋に入れてから垂木を渡して全体に5センチ程高くすると、ちょうど風呂釜と2本の循環ホースの高さが一致したのだった。結局またお昼になって、隣人は抹茶 をたて、昨夜、富岡八幡宮の入り口の伊勢屋でラーメンと餃子を食った後、帰りに「 きんつば 」を買ったのを出してくれた。この深川の「 きんつば 」は なかなか渋くて大人の味だと隣人は感動していた。ぼくは久しぶりに、岡山の富田町の叔父さんの事務所でよく「 きんつば 」を食った思い出話しを嬉しそう にまた話したのだった。 

2010年1月22日(金)

9 条改憲阻止の会のMLで増田都子さんたちの「 天皇制問題について 」やCML・市民のMLで東本高志さんの「 学者、知識人グループ340人の普天間県 内移設反対声明 いくつかの違和感と疑問 」などをまとめ読みをする。なかなか生業のほうが忙しくて議論に参加したりいつもの読後感想文を投稿できないで います。きのうの夜は友人のPCを修理したのを友人が夜8時ころ福生まで車で取りに来たのですが、夕方の4時ころから電気炬燵で待っていたら2時間くらい ぐっすりと眠ってしまってじつに気持ちが良かったのですが、眼が覚めても何だか地に足がつかないような物凄い気だるさで眠くて眠くてたまらない訳です。 いったいこの全身を覆う不思議な鉛のような重力は何だろうか、俺の身体はもうだめなんじゃないだろうかと真剣に考えるのです。前の日に、東所沢に電車で2 回行っただけだというのに夕方にはもう気持ちが悪くて吐きそうなほどだった。理由は、1日に3回もレストランで会食したりコーヒーを飲んだりワインを飲ん だり寿司を食ったりしたからではないだろうかと思うのだが、半分くらいは当たっていると思うのだけれど、もう半分はどうも私自身の身体が私自身に異常を訴 えているのだということ位はここ数年うすうすどころか痛いほど分かってはいるのだ。朝4時頃起きて、2台のストーブに囲まれてインスタントコーヒーを入れ ながら至福の時間だねとぼそっぼそっと告げて、首筋のボンのくぼや上腕の裏側のリンパマッサージをしながらやはりおかしいと思うのだった。 

2010年1月19日(火)

郵 便局の帰りに交差点の信号が緑色の点滅だったので急いで渡ろうとしてママチャリのスタンドを上げて、両手でハンドルを握って、小走りで横断歩道に押し出し て左足をペダルに乗せようと思って足を挙げたのだが、左足は空を切り、身体の上体だけ先に行って、下半身が自転車に付いて来なくて気が付くと左足のオース トラリア製のお気に入りの黄土色をした革靴は変な方向を向いたままズルズルと引きずられていて、私は止むなく両手を離してアスファルトを素手で押さえて左 側転をして止まろうとし、右膝をすでに横転している自転車の後輪部分にいやという程ぶつけて、あっと思った瞬間にはレイバンのサングラスの中から青い空を 見上げていた。松田さんは歩きながら「 和光晴生は無期でもう下獄したのかそれともまだ東拘にいるのか、重信は、今度の最高裁でたぶん18年だろう。彼女 が生きて出て来れたとしても、俺は、その時にはもうこの世にいない。 」と言った。