2013年1月3日木曜日

第25次ロシナンテ号より萩原レポート


一昨年の3月の「第1次東北支援トラック」から昨年の11月の「第25次」まで毎回いろいろな人達との出会いがありました。中でもトラックに一緒に乗って行きたいという方々は特に思い出深くキャビンのなかで長時間にわたってお付き合いしていただいた方々です。今回は群馬渋川で晴耕雨読の農園生活をされ今回さつまいもを無償提供してくださった「上海今昔ものがたり」(論創社・刊)の著者である萩原猛さんが以下のレポート(「明日が見えない!原発事故で、破壊された地産地消の学校給食」「南相馬市長、桜井勝延さんとの懇談」「南相馬市小高区を見る、茫然とした光景が示すものは何か」)の3本を地元紙「上毛新聞」に投稿されたものを著者の了解を得てここに転載して置きます。(長船)

〜〜〜 明日が見えない!原発事故で
破壊された地産地消の学校給食 〜〜〜

 ~調理主任・斉藤香生利さんは考える~

11月19日昼過ぎに、センターに到着し、サツマイモ(鳴門金時)23箱をトラックから降ろし、センターの業務員に受け渡し、その箱を受け取った業務員の手で台車にのせ倉庫に保管された。受け渡し作業終了後、ニ階の事務室に案内され、用意された給食を食べた。メニューは米飯におかずは鮭の切り身、ひじきに青豆をいためたもの、卵とじ汁、牛乳一合だった。美味しいまずまずの食事だった。それから、調理員さんとの懇談を緊急に申し入れ、受け入れてもらったのだった。給食センターの対象学校数は13校(小学校8、中学校2、幼稚園3)、対象生徒総数は1450名)。避難地区の解除で、近く、小高地区が1校、加わる予定のようだ。対象生徒数は300名だが、戻ってくる生徒は100名前後と推定しているようだ。仮設教室の学校で、まだインフラが整備されず、開校の日程は未定の状態になっていた。南相馬市学校給食センターの事務室にて、調理主任・斉藤香生利さんに緊急インタビューを行った。 
質問「あの3・11以降、学校給食は、どんな状態をたどりましたか」
斉藤主任「当日は、センターで炊事をしていました。調理担当者の中で家が流されて住居がなくなり、また家族を亡くした人もおり、震災の大事故で給食が不可能となり、再開の見通しがたちませんでした。そのため、我々給食従事者は全員解雇されました。給食がスタートできる状態ではありませんでした。原町の市の職員さんが中心となり、春から炊き出しを行い、簡単なおにぎり、漬物をつくりました。給食費用はとらず、少しでも子どもたちの“たし”になればよいという思いでした。簡単な食事でしたが、数も多く大変でしたが避難地区に足を運びました。二学期から給食の再開を始めることになり、その夏に給食従事者の面接がありました。震災前まで一緒にやっていた人に希望者がありましたが、いろんな家の事情で、働けず、私一人が採用となり、残りは新しい人達でした。給食業務に従事する者は10名、調理員が8名、配送員が2名で、再スタートし、現在も同じメンバーでやっています

質問「食物の放射能汚染問題は大変重要だと思いますが、食材の検査はどう行われているのですか」
斉藤主任「この給食センターに放射能検査機械を設置し、毎日、測定しています。前日納品、前日検査を行い、検査結果で合格したものだけを使用します。とにかく、子どもには放射能汚染のないもの、少ないものを大事にしています。その測定結果のデータを知らせるため、ホームページに結果を載せ公表して、いつでも保護者が観ることができるようにしています」
質問「震災前の食材は、主に、地元の農産物・果物を使っていたと思いますが、現在、福島県内・県外の使用情況はどんな割合ですか」
斉藤主任「福島県産の食材は、使ってはいけない事になっております。福島県産は禁止です。必ず県外です。それでも検査にかけて数値のいいもの、(合格)したものでないと使ってはいけないことになっています。県外でも基準以下でないと、使えないことになっています。震災前までは、地産地消ということで、本当に身近な野菜、知っている人の家で作った野菜という感じできていたのですが、それが全く無いです」
質問「主に、地域的には北海道産などは多いのですか」
斉藤主任「内では南の方が多いですね。野菜は青森、ジャガイモなどは北海道があります。結構、南の方は鹿児島産だとか、が多いですよ」
質問「いま、その放射能汚染を含めた問題で、これからの課題で、なんとかしなければ、と感じていることはありますか」
斉藤主任「そうですね。どうしても事前検査をしなくてはいけないということ、時間のかかることなど、できたものも検査をして公表しなければいけないという、世間の目もすごくあるので、すごくプレッシャーというか、責任のある仕事ですし、それが一体、いつまで続くのか。というのが私たちにありますね」
質問「終わりのないものですね。セシウム137は半減期が30年といわれていますから」
斉藤主任「さきが見えませんね」
質問「早く、福島産が使える時がくればいいんでしょうがね」
斉藤主任「せっかく福島県は海もあってね、山もあってね、食材も結構豊富なんですけれど、それが全く口にできない情況でして」
質問「果物も食べられないですか。柿もだめですか」
斉藤主任「そうですね。柿もだめですね。栗とかもだめですし、ましてキノコなどは採ってはダメ、見かけたら近づかないで下さい、と」
質問「食材の仕入れは大変ですね」
斉藤主任「そうですね。ですから検収もじっくりと」
質問「とにかく、子どもには放射能汚染ができるだけ少ないものが基本ですね」
斉藤主任「私には、二名子どもがいまして、幼稚園児と小学生と、親としても工夫してあげたい、食べさせられるものと食べさせられないものと、チョット見分ける目も必要なんだと思って」
質問「子どもたちにどんなことを言っているのですか」
斉藤主任「そうですね、例えば、こどもが柿がありました。とって食べようとしたら、そこは、ちょっと待ってくださいとか、栗とかそういったものはね。あんぽ柿なんかも天皇陛下に献上するものもあったり、モモとかも」。
質問「食材の問題について、親や保護者から、どんな声がありますか」
斉藤主任「その子どもさんの親を通じて、こちらの情況というか、いろいろ、知っていることを教えてもらいたいとか、よく尋ねられたりしますけど、どこ産までのものならいいのとか。栄養士の先生がたも大変だ思いますね。」
質問「こちらに来る前に小高で、家の修理にもどっている仮設住宅に住んでいる叔母さんにあったとき、食事のことをきいたのですが、近くで買う米はまずくてしょうがない。といっていました。家ではコシヒカリを作り食べていたからね、といっていましたが」
斉藤主任「農家の方、この辺の人たちは、やはり自分で作った米が一番みたいなので、県外のものは口に合わないかもしれませんね。私も、そうでした。現在、仮設住宅の生活をしているんですけれど、やはり。支援して頂いたお米とかをも試食してみて、アッ家と違うこういう味なんだというのが第一印象でした。でもいただけるだけ凄く有り難いことです。みな好くしてくれるなあと思っています。サツマイモありがとうございました。遠いところありがとうございました」
質問「徳島産の苗を植えたもので、昨日、獲ってきたものです。美味しいですから、召し上がって下さい。突然、お忙しいところ、時間をさいて頂きありがとうございました」

〜〜〜 南相馬市長、桜井勝延さんとの懇談 〜〜〜

11月19日午後四時すぎ、南相馬市役所内で、懇談した。9月定例議会で東京電力福島第一原子力発電所事故を「人災」と認め、責任ある対応を求める意見書を全会一致で採択し、内閣総理大臣等に送付した。今回の原発事故は、国民の生命を守る事より、企業の利益を優先し、安全対策が先送りされたことを根本原因とする「人災」であると断じている。
その意見書は七項目で、①国は原発事故を「人災」と認める、②第一原発の廃炉行程を早める、③健康を害さない放射線量の明示とその数値までの除染をする、④被災者賠償は、一律でなく個人の置かれた立場での賠償をする、⑤市外避難者に高速道路無料化・借上住宅への支援を継続する、⑥市内の企業誘致の創設に国が主体的に取り組む、⑦市内の避難指示等の区域指定がない地域でも一体的な対応を行うことなどであった。目前、復旧・復興の遅れており、ガレキ処理、除染物質、家庭ゴミなど刈置き場の確保に直面している。
市役所の正面には「心一つに、世界に誇る、南相馬の再興を」の横断幕が掲げられていた。市長と秘書の名刺にも、同文が書かれていた。多忙の中、短時間であったが、その中で、当面する課題での市長の考えを聞いた。
質問「当面解決すべき課題はなにか」
桜井市長「みなさんも現場(小高区)を観てわかったかどうか、あういう状態ですので、あすこの復旧というのは、もうやらないと戻らないというか、そういう世界なので、我々には一番大きな課題ですね。それは小高区だけの問題ではないのですけれども、ただ一方で小高区の情況の中で除染という問題は大きな課題としてあって、それは、警戒区域は、国がやる、警戒区域以外は市町村が、という話になっていること事態に問題がありますけれども、国がやることが、なかなか進まないという実態があって、先日も災害ガレキの処理の問題も我々のところに任せてもらえれば、やるよと話してきたのですが、そういう意味で、国が国が言っているわりには、国が遅い。近隣の問題も全く同じです。そこは、まあ一般的に、みんなが大変だという以上の問題に霞ヶ関と我々の問題とか、県も含めてですが、問題があってそれが、なかなか進まない大き
な要因なんですね。本来であれば、復興庁が全面的にここに出てきて、やれればいいんでしょうけれど、なんだか福島県だけが取り残されちゃっている思いがあります。前日、昨日、おとといまで東京でのシンポジウムにおじやましたさいに、岩手県と宮城県と我々とそれぞれ出ていましたけれど、やっぱり予算的にも全然違んだなあということを改めて身につまされた思いでしたね。ん・・・正直いって碇川さん(岩手県大鎚町長)のところに来ている復興、今回の一般財源、一万三千人の町で五〇億円の一般会計のところに五三〇億円だということだからね、我々のところでは二五〇〇億円きても、たりないくらいの話なんだね。実際、除染四〇〇億円を含めて一〇〇〇億円ぐらいしかないんでね。全部引いてしまうと六〇〇億円、人口規模でだいたい六倍近いところで、ほとんど同じ予算で破壊された面積は、我々はかれらの一〇倍以上ある訳で、これを単に数字的にみただけでも福島はとり残されていることがよくわかりますね。で、一方では、我々の現場からすれば、これだけの予算きりで除染を進めたり、復興を進めたりすることが、まあ、手一杯でやっていることが現実で、うん・・・、正直いってそれだけの予算がきて、じやあ、どこが主体的にやっていくのか、となったときに、かなり人員的な問題だとか、こなせる能力の問題だとか、含めてあるんじゃないかなあと比較して思いましたけれどね。我々、なんか変な意味で相対的な見方ができなくなってしまっているじゃないかと思いがしましたね」
質問「国がやるべきこと、特にガレキ処理、除染処理ですね。これは、基本的に全部、国が責任をもってやるべきと考えですか」
桜井市長「まあ、ガレキではなくて、先鋭ガレキを使って防潮堤をつくれ、防潮堤をつくれと去年の五月から提案してきている話なんで、それが、なかなか進まないということ事態に、国のガレキ処理という考え方が、我々現地と違っていたり、環境省の思いの通りやらないとなかなか予算がつかなかったりとか、そいう問題があるんでしょうね。ただ、復興するにあたって、手法というのはさまざま、それぞれ地域ごとに課題もあるわけで、一様に、ペーパーで書いたように、どこも同じような復興するなんてありえないので、それぞれの情況に応じた復興を認めさせて、その現場をいかに早く現場感覚に応じてやりうるのかというのが、
番でしょう」
質問「1年八カ月たち、最近の変化、ボランテイアの状態はどうですか」。
桜井市長「小高区の場合、いろんな所にまだ散って、きた人たちが発信してくれていて、きてくれているのが実態ではないでしょうか。我々の能力以上にね。ただ、ボランテイアもボランテイアセンターを仕切っている人に問題があったり、いろいろトラブルの話は、我々の所にもしょっちゅう耳に入っていて、社協の方も窓口として有りますので、随分苦労していたみたいです、やっぱりボランテイアに来る人の善意は善意としてありつつも、来る人さまざまですからね。当初はあまりにも少なかったし、宮城県以北と比べた場合はね、こちらは、ようやく(昨年の五月の)連休以降ぐらいからですね。最初、警戒区域が解除される以前は下火になってきていたんだけれど、警戒区域が解除されて誰もが入れるようになってから、また新たにボランテイア人たちが、これではまずいということで、満員状態になりましたね」
質問「多忙の中、急遽、時間をさいていただきありがとうございました」
(懇談終了後、記念撮影に応じてくれ、市役所を後にしたのであった)
南相馬市小高区を見る
   茫然とした光景が示すものは何か

11月19日、早朝朝三時時頃、渋川を一トン車に三人で出発し、約8時間後、福島の南相馬市小高区に午前十一時頃についた。目的は、南相馬市学校給食センターにサツマイモ・鳴門金時23箱を届けることであった。
1、裂く莫の南相馬市小高区
まず、福島第一原発から20キロ圏内にあり、12キロまで、今年六月から昼間は出入り自由で、検問はなかったのだった。初めて海岸線のある小高区域をみて回った。一年八カ月はすぎても、大震災・原発事故による異変の光景に亜然とし、茫然とするばかりであった。「百聞は一見にしかず」といわれるように、道路周辺の田にはガレキの山が散在し、ひっくり返っている乗用車、ユンボ、海岸沿いの防潮堤は破壊されたむき出しのテトラポットがあり、倒れた電柱、破壊された家屋、基礎部分だけ残した家の跡、草茫々の田、塩水づけの田、野積み放置された除染袋の散在、家のゴミ袋が山と積まれ、いつ処理されるのか不明で、仮置き場が決まらず、行き先が無い、その被害の残物の光景がひろがっている。
小高区の中心地の商店街は、避難解除で昼間の帰宅が自由になっているが、通りに全く人の気配はなく、破壊されたままの家も立ち並び、電気屋、家具店、スーパーなどの看板の文字が残っていて、町並みを形どっていたことがわかる。今年六月に、警戒区域から解除されたが、人々の姿はみえず、立ち入り禁止区域と大差ない。出入り自由になったが除染・ガレキ処理、一時帰宅、住民帰還の道は遠く、いまだ先は見えない。  放射線量が比較的低い地域といわれているが、かって小高周辺の人もみなマスクをしていたが、マスク姿は道路工事の作業員しかみかけないようになった。今後、予測できる甲状腺ガンへの危険は消えてしまったのであろうか。
2、破壊された地産地消の学校給食
鹿島区に南相馬市学校給食センターがある。南相馬市の小学生・中学生・幼稚園児の一四五〇名の胃袋を支え、子供の命を守っている。食の安全は「生徒の命の源泉である」ことは、論をまたない。この間の世界の原発事故の経験から、食材の放射能汚染は内部被爆を招き、甲状腺ガンの危険を内包している。健康な生


〜〜〜 南相馬市小高区を見る
   茫然とした光景が示すものは何か 〜〜〜

11月19日、早朝朝三時時頃、渋川を一トン車に三人で出発し、約8時間後、福島の南相馬市小高区に午前十一時頃についた。目的は、南相馬市学校給食センターにサツマイモ・鳴門金時23箱を届けることであった。
1、裂く莫の南相馬市小高区
まず、福島第一原発から20キロ圏内にあり、12キロまで、今年六月から昼間は出入り自由で、検問はなかったのだった。初めて海岸線のある小高区域をみて回った。一年八カ月はすぎても、大震災・原発事故による異変の光景に亜然とし、茫然とするばかりであった。「百聞は一見にしかず」といわれるように、道路周辺の田にはガレキの山が散在し、ひっくり返っている乗用車、ユンボ、海岸沿いの防潮堤は破壊されたむき出しのテトラポットがあり、倒れた電柱、破壊された家屋、基礎部分だけ残した家の跡、草茫々の田、塩水づけの田、野積み放置された除染袋の散在、家のゴミ袋が山と積まれ、いつ処理されるのか不明で、仮置き場が決まらず、行き先が無い、その被害の残物の光景がひろがっている。
小高区の中心地の商店街は、避難解除で昼間の帰宅が自由になっているが、通りに全く人の気配はなく、破壊されたままの家も立ち並び、電気屋、家具店、スーパーなどの看板の文字が残っていて、町並みを形どっていたことがわかる。今年六月に、警戒区域から解除されたが、人々の姿はみえず、立ち入り禁止区域と大差ない。出入り自由になったが除染・ガレキ処理、一時帰宅、住民帰還の道は遠く、いまだ先は見えない。  放射線量が比較的低い地域といわれているが、かって小高周辺の人もみなマスクをしていたが、マスク姿は道路工事の作業員しかみかけないようになった。今後、予測できる甲状腺ガンへの危険は消えてしまったのであろうか。
2、破壊された地産地消の学校給食
鹿島区に南相馬市学校給食センターがある。南相馬市の小学生・中学生・幼稚園児の一四五〇名の胃袋を支え、子供の命を守っている。食の安全は「生徒の命の源泉である」ことは、論をまたない。この間の世界の原発事故の経験から、食材の放射能汚染は内部被爆を招き、甲状腺ガンの危険を内包している。
健康な生活を破壊することになる。
現在、南相馬市学校給食センターは、福島県産の食材の使用を禁止している。県外の食材だから、安全で問題がないということではない。原発事故は福島の地産地消を破壊してしまった。福島の柿や桃は、全国的に有名で、天皇にも献上しているほど、その味は美味しいものであった。南相馬市の子供たちは、給食で味わうことができなくなってしまったのである。福島県は海もあり、山もあり、食材としての山菜は豊富で、季節による山菜の料理を楽しむことができた。しかし、原発事故で、福島産の食材を使う給食、とりわけ山菜料理は学校給食から消えてしまったのである。食の安全・子供たちの健康な生活の確保ためには、放射能汚染の食材は県の内外を問わず、検査は不可避である。学校給食センターの調理主任・斉藤香生利さんは「放射能汚染検査は、使用する素材段階と調理後の二回の検査が必要で、毎日、それを公表する。プレッシャーもあり、その責任は重い。このことをいつまで続けるのか、明日がみえない。不安にかられる」と語ったように、全国の学校給食に従事する人たちにとって、南相馬市の調理員さんの思いと共通した思いであろう。原発事故は、子供たちの食の安全と健康な生活の営みをおびやかしてしまったのである。この事故の責任は誰がとるのか。その社会的責任は、あまりにも重い。

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