2011年7月12日火曜日

《リゾートイン磐梯の皆様へ》

「微笑みをもって語ってくれた新たな友へ、出来なかった置手紙。」

3泊4日、冬季であったならスキー宿泊客の一人でもあったろう。

もっともスキーをしたこともない僕にとっては、磐梯山は夏季のリゾート避暑地に感じます。

だが、僕達はそうして出逢ったのではない。

特にトラック隊7名は避難してきたのでは無かったからだ。

甘い蜜のような利権がらみの事で行ったのでもない。

それは、何がし得るかが自分自身に問いかけていた者でもあると思う。

自己責任とか、権利の主張とか、そう言われる時代には、自分の生活を自分だけで守るといった風潮が横行してしまっていると思います。

しかし、僕達が直面している事態は、決して個の個人的問題としてあるのではないと思います。

お盆の供養は?隣の家族の所在は?勤め先は?老後の雨露を凌ぐ生活は?保証は?学校は?梅の木は?公民館は?窓の錠は?、、、、、、、、、。

一見自分だけの個人的な事と思えているあらゆる事は、総て今まで日常的な生活の中にあった極当たり前の日常性。それは、殆ど仲間がいて暗黙のうちに解決されていた。

もちろん、トラック隊7名は帰る場所があり、そこには日常性がある。

僕ですら、隣のおばちゃんは遠くまでご苦労さんと声を掛けてくれるし、慣れ親しんだ社会性が待っている。

東北人の地域的、風土的な感性か、リゾートイン磐梯にはそうした僕達7名との差異を非難する者は誰一人居なかった。
ある意味歴史的に築かれた感性だとも思う。凄く我慢強くて全体の情勢を冷静に観ようとする理知性を感じた。


だから、そうした社会性や日常性がもっとも取り戻して行かなくてはいけない事だとも思います。

それでもおそらく、今は、総て何一つ解決していかないでしょう。

特に、子供達には学校が在った。

リゾートイン磐梯の子供達は笑顔を持っていたし、子供らしい行動を維持していた。

学校は重要だが、生きると言う事においては、柔軟な子供達の世界観は苦悩の中には居ないとも思えた。

恐ろしいのは勝手に枠で囲った意識だ。

決して可哀想な子供を観る眼ではない、力強さを称える眼を持って、

そして、苦難を体験し困難を乗り越えていく未来を背負った勇者達として心から守っていきたい。

どれだけの困難や苦難を持って居ようが、そうしたことも含めて人は一人一人特別に重要な人間であると思う。

引き継いだ「生」の生身の特別な存在だと思う。

その事は人類史であろうと地球歴や宇宙歴から観れば一瞬の事態かもしれない。

それでも、多くの失われた命や寸断された地域性が、実は生き残った者が人としての生を引き継げと言っていると思います。

どんな事態が起きようと、起きてしまっても、隣のおばちゃんであり、おじさんであり、若造である。

4ヶ月目が過ぎようとして、3ヶ月目の混迷だけが待っているのではない。

どう生き抜いたかが先に逝った者達への命の礼節でもあると思って居ます。

その事は、40数年前に中学の修学旅行で広島に行ってから、今でもその本質的原因を識りたいと思う自分が居るし、数年前何十回かの広島行きで観た事にも起因する。

それは、石碑の中から我が家の直ぐ近くにある磐田南高校の生徒が動員されて被ばくしていたことを識ったことでもあります。

地域の僕の同級生やお兄さん達のおじさんが亡くなっていた事は、それまでの広島原爆への怒りとは異なる想いが沸き上がりました。

父であり従兄弟でもあり、兄弟達の死は、残された者のこれからの生き様を問われるという事で、

生き残った者達が一つの頭だけでなく多くの頭を共有して解決して行かなくてはいけないと言うことだとも思います。

その一つ一つの発言や叫びは一つでしかない考えであるが、決して別世界の自分とは関係ないと言うような世界のことではない。

人の口は、まず食べることのためにもあるが、叫ぶためのものでもあり、それだけでなく聴く耳を持つことや想いを文字で観る事もできる。

だからこそ、人は一人ではなく多くの歴史的存在も含め思考しうるとおもう。まして、向かう足も有れば、成す手も持って居る。

僕は5年もプー太郎の身です。でも何とか生き残って居る。先代の人達が残してくれた日常性の環境のなかで生き残って居る。

過去においては、30年勤続した信用金庫で働き、この地区が昭和19年の地震にあい、

東北や信越から大工さん達が大勢で来て家を直してくれたことを顧客のおじいさんやおばあさんから聞いている。

また、神戸の震災の時、姉が関西にいて被災したが、休みをとって向かうことをしなかった。

その時会社を辞めてでも向かうべきだったとも思って居る。僕の想いと行動の矛盾を親友は指摘もしている。

リゾートイン磐梯で、不思議な想いがあった。

喫煙室で、顔に見取れていたことだ。10年ほど前に亡くなった父にそっくりな顔の方にお逢いした。

部屋に在る父の遺影より、もう20年若い時の父の顔を持った方だった。

見取れてしまった非礼を詫びたが、人生にはそうした不思議なことに出逢うことを否定しきれない歳になったのかも知れない。 

実際同行した父を識らない北島さんさえ僕と比べて似ているよねと言っていたが、、、、。

また、コーヒーを自室に招いてご馳走してくれた方もあった。

それは、喫煙に来て被災の話をする僕達が日常性を持った異邦人で、

未だ現実から受けたショックを持って居る方への配慮から来る事でもあったが、こうしたことは、僕達自身気づかないギャップ感を教えてもくれた。


僕は、過去にばらまいた名刺も今は持たない。それはある意味肩書きでしかないからだ。

僕の勝手な非社会性で、ある意味無礼なことでもあるし、チェラだという名前は本名でもない。

それでも、僕自身は何処にいても僕自身だと思って居るからで、父母や先代達の付けてくれた名を恥じているのでもないし、蔑視しているんでもない。

何処にでも居るチェラでいいからだ。

だが、次回はチェラという名刺を持っていこうとも思って居る。  また生きて居れば必ず再会出来るとも信じて居る。


被災地、避難地から遠く離れた静岡県の磐田市でも共に在ろうと思うし、再会の日が在る事も行動を持って生きて行きます。
後世に繋ぎうる命は、先代からの強さの杖で、本当に生き延びる事だと信じている。


                  第9次東北支援トラック行動隊員 Ernesto-Chera

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