2011年7月1日金曜日

<第9次東北地方支援市民会議>・「トラック隊」遠征報告 (その1) 塩見孝也

  ●6月24日(金)より6月27日(月)まで、3泊4日で福島の方に行ってまいりま
した。
 「バスツアー」と「トラック隊」の二つ行動、合わせて一つの行動である、6月下旬
の市民会議—<阻止の会>の<脱原発福島行動>は成功裡に終了したと言って良いと思
います。
 その間の意見調整が大変ですが、「市民会議」のこの試みを担った中心は、海山三千
の「9条改憲阻止」のベテラン諸氏達であり、少々の難課題に遭っても、大体は、巧く
クリアーします。
 「トラック隊」もまた、この6月末行動の「先遣隊」、性格としては「工作隊」の役
目を担ったと思いますが(僕が勝手に思い込んでいるに過ぎないのですが)、これまた
一騎当千の人々でしたから、自らに課した課題を成功裡に貫徹したものと思います。
 「トラック隊」は長船さん、サブロウさん、藤山さん、塩見(既決組)、正清さん、
石橋さん、チュラさんら(その後組み)各氏、7人で行きました。
 映画監督(「いのち尽きるまで」)の藤山の仕事は撮影という特殊な仕事で、機材を
持ってきて、かなり自由に行動しました。
 福島の人々をはじめとしていろんな人々と出会い、いろんなことを知り、学び、僕に
とっては、第5回に続く、新鮮な「遠征」でした。
 ミク友では、静岡から来たチュラさんと行を共に出来、福島45キロ圏の船引のジュア
ンさんとも会いました。
 又、この成功には、これまでの沢山の人々の8次までの試みとその成果の存在、6・
13〜14の八つ岳の麓の清里の久松さんたちのところとの交流や長野県の飯島町役場
の訪問の成果、伊豆の方からの夏みかんの集積作業(Uさんの尽力)という下準備があ
ったからこそ、という認識もおさえられておくべきでしょう。
 僕の方は、26、27と駐車場の方は休暇をとりました。休暇をとれば、我が薄収入
はさらに少なくなったわけです。止む無しです。
●24日は、10時に集合し、「Love and Pease」のコンテナ車(僕はこの車をロシナン
テとい命名しています。僕らのこの5年余、足掛け6年の行動にこの車は忠実に仕えてく
れています。)と千葉のTさんからお借りしている7人乗りの快適なワゴン車の2台の車
、ドライバー6人です。江田さんが見送ってくれる。
 千葉県香取市の「和郷園(農業組合生産法人)」に行き、キャベツ、きゅうり、トマ
トを50箱くらい積み込む。「和郷園」はパルシステム—下山さん関係として協力してく
れたわけです。成田の近くと考えてください。
 途中、大回りをして、東京まで引き返し、外環線から東北自動車道に入った経緯もあ
り、「リゾート・イン・磐梯」へは、相当、時間がかかり19時ころ、到着することと
なりました。
 郡山JCTで、新潟に向かう磐越自動車道に乗り換え、猪苗代湖を左に見て、磐梯河東I
Tまで行き、磐梯山スキー場に向かう支線の「ゴールドライン」に入る。20分くらいす
ると、新館・旧館のスキー客向けのホテル、「リゾートイン磐梯」があります。郡山市
は 郡山JCTの南、二本松市はその北の、いずれも「浜通り」に位置します。
 ここを、三泊四日で、根拠地にしつつ福島県を走り回ったわけです。
 ここから、南相馬の原町やより以北の福島市、より以西の猪苗代湖の畔の猪苗代湖駅
に出かけました。これより以西に会津若松市があり、その先が新潟市となります。
 福島県は、前回も書きましたが、太平洋岸の「浜通り」、中央部の阿武隈山系沿いの
「中通り」、全然地形の違う新潟県よりの「会津地方」の三地域から成り立っています

 福島県は、人口は205万5000人(2008年10月)でしょうが、広さは北海
道、岩手に次ぐ第三番目に広い県です。この県の、大雑把に言って、ほぼ中央部に猪苗
代湖、「リゾート・イン・磐梯」があるわけです。
 大体の福島県の地理的全体像をこのように掴んでおくと郡山市、船引町、浪江町、飯
館村、南相馬市=原町市、第一原発近くの双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、いわき市
など、よく出てくる地名の位置も頭に入ります。
 今回は、第五回目のごとく南相馬市に地震で崩壊しかかった、飯館村近くの高放射能
の国道を通り抜けるなどの無茶はせず、霊山経由で相馬地方に入り、南相馬市に行った
わけですが、それは福島県の地図が頭に入っていたから、すぐに判断できた事柄です。

 ここでトラック隊の費用のことに若干触れて起きます。 他の費用の宿泊費、食費込
みで「磐梯」では一日2千円、他で食べる時も僅かで、大体は自費負担ですから、2台
で駆けずるり回るガソリン代が主要な経費となります。
 高速代は「支援」名目で書類を出せば無料となるも、ガソリン代がグンとかかるわけ
です。
●さて、25,26、27のおおよその行動経過を語っておくこととします。
 トラック隊は、翌25日は朝5時起きで、9時に南相馬市の桜井市長にお会いし、新鮮野
菜類をその後、降ろし、「リゾート・イン・磐梯」で「避難民」の方々と交流目的の<
座談会>(最初は、講演会みたいに企画されていた。)をすべく、早めに南相馬市を発
ち、6時頃、帰館しました。
 朝5時起き、6時出発の早朝行動は桜井市長の予定が混んでおり、朝一番の仕事はじ
めとして、僕ら「トラック隊」との会合が据えられたからに他なりません。
 40分くらい市長は会ってくださり、意見を述べられ、僕らも意見を述べました。
 放射能問題→「疎開措置」と南相馬市の再建政策との兼ね合い、バランスの問題、再
建の総路線の問題、さらにこれに原発危機防止の見通し、「工程」表評価や国政政治が
絡むわけで、この意見交換はこのレベルまで踏み込むことを双方抑制したものとなるわ
けで、僕ら各人は、資料として渡すべきものはわたしましたが、頃合を考えて発言しま
した。
 これで、良かったと思います。市長は、翌日の「さようなら、原発集会」のアピール
を用意することを約束してくださいました。
 立派な、メッセージが届けられました。
 長船、正清は残念にも所要で、この「会談」に参加できず、僕など残りのメンバーで
担わざるを得なかった。
 「磐梯」での<座談会>は24、25と2回やり、他に浪江町の世話役の方と時間を
取っていただき、話したりもしました。
 「座談会」に反応した人々は僅かで、空振りというところでしたが、それでもお二人
から三人の方が出席され、その中のOさんという方は、僕らと原発問題で同じ捉え方を
する人で、Oさんは、翌日の「福島デモ」にも同行してくれる程でした。
 「磐梯」での交流は、これに加え、思わぬところで実現しました。それは、3階に喫
煙室があり、そこで滞在の煙草吸いの方々とざっくばらんな対話が出来たことでした。
ここへ行けば、持ちかけよういかんでは、土地の人々といつでも話が出来ます。サブロ
ーさん、正清さん、チェラさん、僕らは相当立ち入った避難の実情を聞き取りすること
が出来ました。
 分けても、Wさんとはそこで親しくなり、その後、場所を変え、多方面の事柄で、独
自の時間をとり、突っ込んだ話し合いをしました。
 他方、長船は、撮影の藤山と共に原町に残り、「バス組み」の桜井さんへの表敬訪問
の世話焼きや萱浜海岸の案内をし、遅く帰ってきました。
 それにしても、桜井市長はこの日、我々「市民会議」の方と二度、会ってくださった
わけです。ありがたいことです。
 翌日、26日は余裕で、福島市に向け、11時出発、「バス組」と合流し、午後2:30か
らの集会に参加し、4時頃までデモをやり、その後、雰囲気のある蕎麦屋で集会主催者
の二人の女性と交流しました。蕎麦は美味で、「バス組」と「トラック隊」の顔合わせ
の場ともなり、楽しかったです。
 デモは雨も降り、600〜700人というところではなかったでしょうか。外人組が
150人から200人弱ですから、福島県人としては多いとはいえませんが(全体で、
500弱と見る人も居ました。)、市民運動としては福島県として、初の試みといえま
す。
 いろんな、昔の人々とも出会いました。福島在住の「京浜安保共闘」の人が挨拶に来
ました。僕の昔の論文を読んでくれている若い人も挨拶してくれました。
 仕事併用で単独でやってきた下山さんともお会いできました。そうかと思えば「よど
号」の柴田泰博さん死去のニュースが飛び込んでくる始末です。合掌。
 「原発要らない。さようなら、原発」「反原発」「脱原発」、「運転即時停止」、「
即時廃炉」、「原発全面廃止」の鮮明な共通のスローガンを掲げる集会、デモが初めて
、堂々と福島市でもたれたことは大いに意義あることだったと思います。大げさに言え
ば、歴史的なことだったといえます。
 僕ら以外にバスで来たのは高円寺グループの60人であったと聞いています。このバ
スに「ロフトプラスワン」の平野氏らも乗って来ていました。
 この晩、「バス組」に「トラック隊」の正清さん、石橋さん、藤山さんは分乗し、帰
って行きました。
 居残り組は長船さん、サブローさん、チェラさん、塩見の四人で、27日まで滞在し
、後始末のようなことをやりましたが、概して付録のようなものでした。
 それでも、「磐梯」避難者の方々との最後の交流の追及、帰途に当たってのメッセー
ジを書き残すこと、PCでの「市民会議」への一言メッセージの作成、ミク友ジュアンさ
んとの会合、らを追及しました。
 しかし、あまり遅く帰京するわけにも行かず、ジュアンさんとお会いすることは実現
しましたが、2時ごろ「磐梯」を出て、午後7時、新宿南口に帰京しました。

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