2011年5月29日日曜日

東北支援トラック中間報告

第1次を3/26に決行し、その後第3次まで日帰りを毎週土曜に2回やり
合計3回は、いわき市議の佐藤和良氏の脱原発ネットワーク(老人ホーム「かしま荘」
と「楽寿荘」)へ、「箱根強羅で取水したおいしい水50ケース」とパルシステムから無償提供で毎回約
1トンの野菜と果物を
りんご箱で約50ケースを届ける。この他に三上さんが独自に指名した小名浜地区の「いわき自由労組」という
小さな地区労組へ同内容で1回届ける。
第4次には1泊2日で石巻市湊小学校と湊中学校へ足をのばしている。このとき埼玉県加須市の廃校
になった高校にいる波江町のかたに渕上さんが会ったことから二本松市東和体育館に臨時で浪江町の
災害対策本部の物資センターと避難所があるということが分かったので
ここに「野菜と果物」および「箱根強羅で取水したおいしい水の半分やく25ケース」を降ろす。
その後、ここで体育館の板の間に間仕切りもなく寝ていた避難民は全員県内の温泉やホテルに
移動したのですが、その後は浪江町で避難しないで残っている多くの住民が物流が来ないことから
自力でこの物資センターまでただで何でももらえるので(数量制限はあるが、)毎日次から次へとぞろぞろ
来られるのでわれわれは第7次まで毎回ここに3分の1くらいを降ろしている。
おもしろくなって来たのは第4次からでした。
当初より宿泊というより現地に停滞したいという欲求が強かった私は、この回から支援トラックの日程を
計画段階で2泊3日とし参加者はビジネスホテルの個室でレポートを書く事を必須条件にしたのです。
第5次に二本松市から南相馬市社会福祉協議会災害対策本部の体育館に行きその日はホテルに泊まり
翌日原町萱浜地区の変わり果てた浜辺と一帯の住居跡を視察して呆然としたものです。
しかし、われわれの求める難民となった避難民にはなぜかこの段階にいたっても出会うことができませんでした。
それは当初から感じていたのですが、彼ら避難民は行政の方針として一般人に触れさせないというような
何か隔離政策があったような気がします。
それは社民党本部ですら玄関にでかでかと「東北大震災災害対策本部」という大きな看板を掲げているくせに
内実はまったく何もないに等しくただただ地方選挙で忙しいといった体たらくなのです。
第6次からは磐梯町災害対策本部で南相馬市や浪江町から避難してきた人々を300人くらい受け入れている
というので「リゾートイン磐梯」へ二本松市東和体育館から南相馬市災害対策本部を経てとうとうわれわれの
行動は毎回この3カ所をまわるというパターンになって行きました。
この回から避難所にインターネットのできる公共PCの設置が支援の一環としてはじまりました。
そして第7次にはとうとう参加希望者が増へてもう一台、江田さんの息子さんのワゴン車を借りて
7人でさらにいわき市四倉で元パチンコ屋だったという上九一色村の第6サテイアンみたいな一見怪しげな
「平キリスト教教会のボランテイッセンター」にも支援物資をおろすことになったのでした。
これは参加者の自由であり、これからもどんどんいろんな人がこういうことを
やりたいということがあればぜひ市民会議で発表してください。
結構、自由自在に何でもやらしていただいています。
5/1には福島反原発集会への参加もわれわれの支援トラックは計画的に参加することができました。
第5次では南相馬市で桜井市長と会うことができました。
第7次では「リゾートイン磐梯」で7人全員泊めてもらい避難民のかたがたと同じ食事をし
5つの市町村の自治会の代表と会談することができました。
そして何よりもいままでわれわれがぼんやりと求め続けていた呆然自失して難民と化した多くの避難民と
ホテルのロビーや玄関の外の喫煙所や食堂の片隅でやっとしみじみと語りあうことができました。

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