2011年5月3日火曜日

第6次東北支援トラック(リゾートイン磐梯へ)・「連帯ニュース第114号」から

  2011年5月11日寄稿 「9条改憲阻止の会・連帯ニュース第114号」
< 福島原発周辺の状況と救援活動報告―ネット環境の設定 >

■ 4月30日、10時頃に新宿を出発、福島に向う。メンバーは長船さんとフリーター労組の北島さん、それに初参加の私、雪野の3名である。
▼放射能の測定状況
 途中、福島県に入る頃から放射能検知器が警報を鳴らし始める。福島市内に入ったところから100~150cpm程度になり、これは概算で0.8~1.2マイクロシーベルト(μSv)に相当する。ガイガーカウンタは粒子の性質を持つ放射線を捕えるとそのつど「ポッ」とカウントする(もって行った機械は音が出さない仕様だったが)。従って、このカウント数はほとんど鳴り続けの状態である。往路で最大となったのは、国道115号で南相馬市に向う途中の霊山パーキングの屋外で、500cpmを越えた。地理的には福島第一原発から北西、飯館村の先に位置している。ここでも、ドアと窓で密閉された休憩所の内部では150cpm程度だった。なお、前回の国道114号線を経由した際には一時3000cpm(24μSv)を示したということだ。1年間いたら200mSvの被爆となる。その後、南相馬市では多くて150cpm程度で、平均的にはむしろ福島市より低い数値であった。3月12日の水素爆発の前後の風向きが明暗を分けたことになる。それにしても、結果的には放射能汚染分布をほぼ正確に予測していたSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の数値を公表していなかった点で政府の罪は大きい。そのときのために100億円余りの国費を投じて開発したシステムの報じた貴重な警告が一番大切な時期に公表されなかったのである。
▼南相馬市で
 登り道はいつしか下り始め、相馬市内に入る。南に下り、目的地の南相馬市に至ってしばらくすると、田畑のあちこちに漁船が残された光景が出現する。喫水が1mを越えている船もあるので、少なくともこのあたりでも1m以上の津波が到来していたことになる。海岸線は数キロ先のところである。なお、福島市内からこのあたりまで、地震で倒壊した家はほとんど見当たらず、ところどころに屋根(棟の部分が多かった)がこわれてブルーシートで覆った民家が見られた。屋根屋さんの工事の予約は2年を越えている由。夕闇が迫る頃、ようやく目的地の支援物資集積所に到着した。PALシステムからいただいた新鮮な野菜と果物、さらに軍手とタオルを1~2トン、荷卸しする。「南相馬市災害ボランティア がんばろう! みなみそうま」と大書されたキャップをそれぞれ頂いた。このキャップを被っていると食事の際など「ご苦労様です」「ありがとうございます」と店の人や客から声をかけられる。この日は常磐線原ノ町駅近くのビジネスホテルに宿泊したが、すぐ近くのコンビニには「営業を再開しました」という横断幕が張られていた。長船さんの話では前回より街の中がずっと明るくなっているという。なお、常磐線は原ノ町駅の南北の区域(いわき-岩沼間)の沿海の部分で壊滅的な被害を受けており、一部は福島第一原発の避難区域に属していて復旧の目処はまったく立っていない。
二日目の5月1日は、沿海部の萱浜地区の被災状況を見て回った。海岸線と平行に走ってい
る小高い町道から坂を下ると、一面の津波被災地である。水田地帯の散村の民家はほとんど全滅した。すでに瓦礫はところどころに集められ、青か白の旗が立っている。土台だけ残った家がある。赤いトラクタがそこここに流されている。ぐしゃぐしゃにつぶれて倒れた送電鉄塔がある。その先に誰が立てたか鯉のぼりのポールが見える。「負けないぞ!」という不屈の闘志を感じる。
 海岸線からおそらく100mは内陸の部分に、防波堤のコンクリートが数片(といっても1.5m×5~8mはあろうかという大きさ)打ち寄せられている。海岸には、一抱えるもある松の木の幹が打ち寄せられている。枝はまったく残っておらず、根元はすっぱりと斜めに剪断されている。黒い樹皮はわずかに残るのみ。松原の大樹が、一瞬のうちに津波に襲われ、翻弄された後に流されてきたのだろう。かつて海水浴場としてにぎわった砂浜は、10m幅も残っていない。残された防波堤は、海の中で波に洗われている。津波は引き際に海岸の大量の砂を流し去った。残った海水が流出する際に侵食された浜には、2m近くえぐられた流路が残され、大量のプラスチックゴミが漂着している。2カ月近く前に津波がこの地を襲ったときの様子がまざまざと目に浮かぶ。
こうした災害を予測し、警告していた研究者もいたが、これらの警告は無視された。萱浜地区を見た後、避難所のある磐梯に向う。途中、福島市で集会に立ち寄った。
▼子どもたちを放射能から守るための集会
12時過ぎに会場に着いた。準備会に予想以上に参加が多く、急遽会場が変更されたという。会場準備の人たちを手伝い、ビラなどを置いてもらう。200人以上が参加し、地元TVも取材にきている。開会、主催者挨拶の後、「県外からの参加者」の分科会に参加。遠く関西、中国地方からも参加があり、総数は約30人。お母さん方に、放射能について強い危機感があるのを肌で感じる。次の予定があるので途中で退場し、最後の目的地の磐梯町に向う。
▼磐梯リゾートイン
 5時過ぎに、片隅にまだ雪が残るスキー場のリゾートホテルに到着。ここには6町村から約160人が避難している。われわれも一泊1000円で宿泊させてもらうことになっていたが、その後「無償」に変更したとのこと。少し押し問答をしたが、ありがたく好意を受け入れる。個室に家族ごとにいられるので、その点では条件は良い。しかし、翌5月2日、正午ころまで滞在の間にも、避難している人たちの不安とさまざまな課題が見えてきた。ここでの目的は共用PCの設置である。相馬市のボランティアキャップを被ってPCとチラシを脇において食事していると、浪江町から避難しているT.R.さん夫妻から話しかけられた。ノートPCを食堂に持ち込んでいる。インターネットプロバイダの使用料が引き落としのままになっているのではないかと心配だ、という。さっそく、TさんのPCの保存メールでプロバイダを確認し、電話をかけて利用停止の連絡をする。幸い、4月に入ってから利用停止の申し出がされていることが確認できた。息子さんが連絡したらしい。これをきっかけに、Tさんからいろいろな話を聞くことができた。米作農家のTさんは、13日に二本松の避難所に入った後、すぐ別の避難所に移り、ここには20日位して移ってきた。父親が避難して3日後に脳梗塞を発症して入院、母親は仙台在住の親族が引き取った。いちばん気がかりなのは、1000万円近く残っている農機具のローンの返済だという。Tさんは浪江町で稲作が再開できるかどうか懐疑的だ。このようにまだ利用可能な農業機械については、一旦政府が買い取って除洗後にレンタル利用等に供し、稲作が再開できたときにTさんに機械と残債を戻すスキームが可能だろう。しかし、60歳を越えたTさんは「そのときに農業を続ける気力が残っているか心配だ」という。その後も、Tさんとはしばしば顔をあわせ、挨拶をして言葉を交わす間柄になった。Tさんはかなり現実的な見通しを持っていたが、長船さんが話した人には、「半年くらいで戻れる」と楽観的過ぎる人もいた。避難所入り口の喫煙場所は、滞在者と話をする絶好のスポットで、北島さんは原発労働者を含む多くの人と話ができた。その労働者は「呼び出しがあったが行かなかった」ということだ。所内の生活では、食事の配膳、食器洗い、掃除などで当番制が行われている。絵本やおもちゃ、お絵かきの道具などのある子どもの遊び場では、お母さん方やボランティアがこどもたちと遊んでいる。しかし、地区の自治会は6地区すべてでは組織されていない。行政、NPO、弁護士有志などによる相談会のスケジュールも毎日のように掲示されている。それでも、先の見通しのつかない不安は覆いがたく避難所を漂っている。長船さんは階段に座り込み、さめざめと泣いている女性に出会ったが、かける言葉が見当たらなかったという。共用PCは3階食堂の入り口あたりのカウンターに無事設置した。長船さんによれば、今回初めて実際に被災者と会って話ができ、もっとも充実した支援活動ができたという。ほんの短い間の支援活動であったが、ささやかながら被災者の力になることができ、いろいろと考えさせられた。今後も機会があれば参加したい。             (文責  雪野建作)









「東北ー、市民会議」からWifi付きNetbookの無償貸出しは「福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト」

http://sicpmf.blog55.fc2.com/

からの呼びかけに応えるというかたちにしたいと思いますので現在、宇都宮大学国際学部付属多文化公共圏センター

の阪本公美子教授に市民会議で1台を5/1に貸出しにリゾートホテル磐梯スキー場まで行く旨をFAXしてあります。

しかし、事前にコーデイネートについて打ち合わせもなくまたしてもいきなり行くわけでありまして、

おそらく先方としては現場の避難先の誰か特定のかたをご紹介くださる予定だったと思うのですが、どうも「私」の

やりかたは性急であるのかと自問するのですが、おそらく「私」ではなく、おそらく「3/11という歴史」のものすごい

スピードに「私」が翻弄されているだけなのかも知れないと思います。

あるいは、言い換えればまたぞろ42年前の大いなる不遜な「私」のなかの物の怪が「3/11という歴史」の流れを

自由自在に泳いでいるという幻想のなかで笑っているのだと言えるかも知れません。

今日までのTwitterから

•@mizuhofukushima 「浪江町」「南相馬市」「飯館村」「大熊町」など150人の第1次避難民と第2次避難民が混在する

「リゾートイン磐梯」に幼稚園児・小学生低学年・乳幼児を連れた若い母親30人くらいみました。

おもちゃも児童向け童話も歯科医院の半分もなく汚れたミカン箱3個分です

約10時間前 webから

•メーデーだったそうです。「連合」や「日共」が福島原発を修理して使おうとか原発推進派として何か声明とか

出したの?

約11時間前 webから

•少なくとも20キロ以内は自動解約手続き処理するか当面の接続料金は無料に特別にするべきである。または

「国」と「東電」がその避難民のかたがたの接続料金は肩代わりするべきである。

7:51 AM May 2nd webから

•避難先にPCを持って逃げる暇がなかった人々にいまも接続料を請求し続ける大手ブロバイダーたちの気が知れない。

7:47 AM May 2nd webから

•原町駅前の喫茶店で原発労働者にはじめて会いました。年老いた80才台の人は「昨日も来てくれって言われたのだ

けれど、俺が行っても何もしてやれないし、」と少し悲しそうに話してくれました。

11:59 PM May 1st webから

•夕食後、階段で蹲って泣いている若い婦人を見ました。もう耐えられないような感じで痛々しく私は声をかける

べきだったような、しかし声をかけに来たのにかけられなかった。

11:52 PM May 1st webから

•私に「いつになったら帰れるのか」と聞く人の家は13キロのところだそうです。

東電から「100万円はまだ振り込まれて来ていない」と何度も何度もまるで私が「東電」から来たみたいに言うのである。

11:49 PM May 1st webから

•このホテルに長期滞在している避難民にはすでに「拘禁反応」が顕著に認められます。異常にハイテンションになって

ソファーで逆立ちしている28才のヤンキーなのかも知れないけれど美しい女性が速射砲のように瓦礫に埋まった鹿島地区

の街全体が死体で臭うのだとクセエクセエとほとんど独り言のように私に向かって話し続けてくれた。

11:44 PM May 1st webから

•食事の150人中当番制配膳係りの選出は5つの市町村からなる自治会というけれど、どうして5つの市町村なのだろう。

それは「県」が「分断して統治せよ」をしているに過ぎない。大浴場は4月8日からやっと入れるようになったそうだ。

11:40 PM May 1st webから

•広大な沼と化した団地に少数の屈強な自衛隊が壊れた側溝に詰まった海砂をスコップで一日中かき出していた。

8:23 AM May 1st webから

•南相馬市原町区萱浜の海辺の見捨てられた街に市の災害ボランテイアセンターはまだ何もできないのか

8:19 AM May 1st webから

•二本松市から県道62号線を飯館村経由で南相馬市に入ってずっと脳裏をよぎっていた言葉がある。

それは「善意の押しつけ」と「悲しみ探し」と「パパラッチ」である。

1:12 AM Apr 29th webから

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