2011年5月6日金曜日

「原発と地震、津波の三重苦災禍の福島県見舞い記」4.25<塩見考也からの現地レポ>





原発と地震、津波の三重苦災禍の福島県見舞い記

ーーー東北地方太平洋沖地震緊急支援市民会議、

第5次トラッック隊報告 その1(4月23日から24日)  塩見孝也
 
23日(土)

 1、僕は自然災害にしても、原発禍にしても、その責任追求としての民衆の大衆的政治闘争を重視する者ですが、

そうだとはいえ、現実に苦しんででいる民衆を救援する行動なくしては、こういった行動も”虚業”に変質する危険を有すると考えています。

その意味で、立ち上げられた「市民会議」の生鮮野菜や水、タオルらを被災地の人々に届ける活動こそ、

紛れもなく、”実業”として尊貴する者です。被災地の人々にありがたがられ、役に立てば、こちら、救援する側も元気、

幸せ感をもらい、政治闘争にも精がでます。

 僕は、前回第4次の石巻の際は、仕事の都合で、行けず、仕分けの手伝いだけでしたが、

今回はトラック隊の一員として端っこに乗りました。

 23(土)、9時、四谷事務所集合ということで、7時に家を出て、8時半に出向きました。

今回は、常連の長船清治隊長、もう一人のドライバー、川本三郎さんとの3人組で、2泊3日です。 

某政治グループの取材を受けた後、9:30頃出発。トラックは長年の「阻止の会」のロシナンテ役を果たすコンテナ車、

1トン半近くのパルシステムから提供された野菜類と他からのタオル。パルシステムに重ね重ね感謝。

特殊装備として、2種類のガイガーカウンター、一種はタンポポ車より借用、もう一種を、途中で貸していただき、

いざ、東北自動車道へ。常磐道は未だ不通。

 タンポポ舎のは、通称CPM、単位はナノグレイ、

もう一つのはロシア製、これはマイクロシーベルト、毎時。出発の際は、0,019ナノグレイ。

 2、東北自動車道を宇都宮、白河、郡山と走り、二本松で高速を降り、二本松市の東和体育館に到着。

午後5時前。ここは、福島県浪江町の被災者の人々が緊急避難していたところで、4~5日前この人々は、近隣の各ホテルに

第二次避難し、分散して行きました。

今は緊急支援物資の集積所になっており、かつ浪江町の人々の仮市役所となっています。

 職員の方に事情を伝えたところ、歓迎され、まずタオル類を卸す。浪江町の住人で、第一次避難をした人たちで、役所手続きをしたり、

もののを取りに来た人たちが、かなりな数、居られ、その人たちに生鮮野菜を受け取っていただきました。イチゴ、トマト、ほうれん草、タケノコ、

夏みかん、ニラ、ピーマン、なすび、ジャガイモらら。放射能汚染で、野菜、果物らは不足していましたから、大歓迎です。

 僕らは、これで大いに気合いが入り、気を良くし、一気に国道浪江町、葛尾村沿いの114号線をを南下し、海岸沿いの6号線に出て、

目指す南相馬市、原の町の市役所に向かおうとしました。ところが、この試みはすぐに挫折しました。

6号線は、既に規制が入り、20キロ圏合内にかかり、通行止めということで、警察官に追い返されました。引っ返して、それでは

南相馬市に入るにはどのみちを選ぶか、となり12号線を南下することとしました。

12号線は阿武隈山系を通る、山又山の、山道とかわらない砂利道、泥道なのです。これは僕ら3人には物の数では、なかったのですが、

脅威となったのは別のことでした。引っ返し途中から、計測器が強烈に赤ランプとなり、その数値は、3000ナノグレイ、

ロシア製は、9、99までは計測されますが、それ以上は針が振り切れてしまいます。全くの脅威です。

考えてみれば、この辺りは、新聞をにぎわす飯館村や浪江町の近くの山地とはいえ、盆地上の地形であり、放射能が滞留しやすい地域であったのです。

 さてこの事態を迎えつつ、僕らが深山幽谷の中、強烈な放射能を浴びつつ、

いかにして、原町に行き着いたかについての報告は次回、その2とします。

お楽しみに。

報告その2、4月23日夜の<山越え>記
 
 僕らは、凹凸、起伏激しく、降りたと思えば、又登りの続く、その繰り返しの山道、見下ろしても街の灯など認められない、

山又山の真っ暗な泥道、路端はそのまま崩れ去っている山道をロシナンテとともに、2時間余、「行軍」しました。雨も降って来ます。

 12号線、これは国道とはとても思われないような全く舗装やガードレールなどお呼

びでない山道なのです。ライトのみが頼りです。その間、ガイガーカウンター鳴り続けです。

 それにして、このような中国山水画のような世界、もう少し優雅に言えば、深山の竹林で琴を弾ずるような世界、その山中を

放射能が覆っている、この組み合わせ、構図とは何だろうか、と僕らは首をかしげたわけです。

僕は、これは、現代への強烈な皮肉、辛らつな風刺と捉えました。

 放射能という「悪霊」が、深山の生あるものすべてを、音も立てず、静かに静かに、しかも強烈に腐食して行っているわけです。

 とあるところで、僕らは、ここだけに芝生が植えられ、十数本の桜の樹と思しき空間に出くわしました。 

そこで休憩を取りました。梅なのか、と思われましたがやはり、7分咲きの桜の樹でした。

 頭をしっかりと覆い、厚めのマスクを付け、懐中電灯を持ち出し、外に出て、計測器でしっかりと確認したところ、確実に

3300ナノグレイで、地表にそれを下ろしてゆくと3500ナノグレイ以上でした。 

 気のせいか頭ががんがんする、感じでした。それにしても、<深山幽谷>の桜の花の下で、3本の懐中電灯の下、計測器に見入る

3人の人々、と言う美的構図とは、実に鬼気怪々なるかな、と僕ら3人は共通の想いに駆られたのでした。

 サブロウさんが、たんぽぽ舎の研究会で学んだ認識で、事態を説明しました。放射能は、遮るものが無ければ、どんどん風に

乗って拡散してゆくが、山やそこでの樹木に遮られれば、それに引っかかり、滞留してしまい、それが山間部の盆地状の地形

の所に沈んでゆくこと。だから、やや高い山間部の地形の方が計測値は高くなる傾向があること。

 実際、帰途の際、山間部を登り、東北道に出た際、このような現象を僕らははっきりと体験しました。

このような事態として20キロ圏の外の飯館村や葛尾村、浪江町などが、福島第一原発の直近隣の二葉町、大熊町、富岡町、

楢葉町並みの放射能を引っ被ってしまっている、ということ。 

 政府はこの事態を知っているが故に、これらの地域を、「計画的避難地域」、「緊急避難準備地域」として「検討中」と発表したわけです。

しかし、この道理は、暗示はされはしましたが、はっきりと説明することを避けて来ていましたから、地域の住民でも

しっかりとは事態を掴めていず、ました全国の一般民衆は、何で飯館村などが新聞種になり、騒がれるのか、理解できかねる情況と言えます。

 僕らの実感からすれば、この三、村、町のおかれている情況は大変厳しいもので、そこで育成されている野菜、あるいは米は汚染され、

生業を営むことが出来ず、廃村、廃町となるであろう、という感じです。

 そうなれば、当然にも、この12号線は無用の長物となり、閉鎖、廃道となる、したがって若しかすれば、放射能まみれの12号線を

利用する人は、今後、居なくなることからして、僕ら3人は最後の利用者となるのでは、と意見一致しました。

 2時間近く、<行軍>すれば、南相馬市、原町市が近くなり、12号線は道幅も広がり、アスファルト道に変貌し、

ガードレールも整備されてきました。 僕らは、予約しておいたビジネスホテル、「高見」にチェックインし、温泉に浸かり

、思う存分、放射能を洗い落としたわけですが、そこは、南相馬でも、やや北側で、20〜30ナノグレイ、

東京並みの数値でした。

<南相馬市市長・桜井市長との会見 >

 23日夜、ホテルでのミーティングで確認したごとく、僕らは、24日、午前、東相馬市役所(原町市役所)に出かけ、

市長面会を追求し、その足で、「福祉協(議)会(?)」に行き、野菜類を置き、午後、地震・津波に直撃された

萓浜海岸一帯を探訪する予定をこなそうとしました。

 午前十時ごろ、市役所に着き、事前に話をつけていた市庁秘書、星さんに面会しました。

 市役所は日曜にも関わらず、ごったがえしていました。とりわけ、東電の「仮払い補償金請求用紙」作成の説明チラシを受け取らん

とする人々が、列をなしていました。

この書類(申し込み書)受付けが4月29日からはじめられるとのこと。原発・地震被災地の所為でしょが、土日であるにも関わらず、

ここ福島県職員は精力的に働かれています。

 星さんはすぐに市長に取り次いでくださり、市長・桜井勝延(かつのぶ)氏は、他の人との面会中にも関わらず、すぐに出て

きてくださりました。 僕らは市長へのある人の信書を渡し、長野県佐久病院が、東相馬市の患者を受け入れる

旨の事柄も伝達しました。

 桜井さんは、極めて温顔、気さくで、如才なく、これらの件の経過は知っておられ、てきぱき、果断に捌かれて行かれました。

 又、面会中の客人が「新党・日本」の田中康夫氏であることも伝えられ、その前には、服部信一氏や保阪展人氏とも会われた、

と述べられました。又、東相馬市と杉並区の親交についても話されました。

 市長は<反原発>、<原発廃止>の所信を公表さています。いろんな面で、静岡県知事とは大違いです。

 「緊急支援会議」の説明や活動経過、あるいは東京の反原発の大衆運動が盛り上って来始めていることら、運動の進展状況を

僕らは説明しました。  「支援会議」の簡潔な説明パンフの作成、を痛感しました。

 要件は果たされたので、お別れしようとしたのですが、もう一つ粘って、写真も取り、田中氏とも会うべきと思い、その旨、

星さんに伝えたところ、市長は簡単に応じてくださり、市長室に招かれ、田中氏にも紹介してくださり、田中氏も含んだ

記念写真の生成と相成った次第です。

 僕は、どこかで氏とは会ったような気がし、氏の方も知っておられたようでしたが、相変わらずのギョロ眼の風采で、

この方も気さくでした。 運動に関しては、大関心で、「呼んでくれれば、いつでも出向く」、とおっしゃって

いました。

 以上が、長船氏が発表した6人の記念写真生成の経過です。 この後、「福祉協会」に行き、残りの救援物資を収納

しました。ここでも、新鮮野菜らは大いに喜ばれました。職員の方や東京・新宿三軒茶屋から来たボランティアの青年

らと運び出しました。彼らは、30代はじめの好青年でしたが、「若いやつらが少ないのが残念」、とぼやいていました。

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