2009年7月6日月曜日

空想的社会主義に陥らないように

1996年にビル・ゲイツの発表したWin'95のおかげでWWWの世界は急速に広まってそのおかげでぼくはイサオと出会ったのだ。こう言うとハレ氏が、あれっ、きみはMacではなかったのかと突っ込みを入れたので、もちろんインターネットの世界が開かれる以前からぼくは高価な旧式Macでただ誰ともよく分からぬ人々と「良い天気ですねなどと、」文通したいだけの目的でASAHI-NETのBBSでアナログ回線を使ったローカルネットに少しの間加入していたがそれとて1990年代に入ってメモリが8MBとHDDもまだ40MBそこそこの時代のMacといったってまだ本当にはぼくの想像力を今のようには、かき立てるというにはほど遠かったのだ。1970年代をミニコミの時代だなんていう人々もいるようだが、それはちょうど1960年代にぼくらが高校生だった頃流行ったアマチュア無線のようなものに過ぎない。誤解を恐れずに同人誌で下手な小説を書いていると言うと、なんだか偉く構築性のある論理的でクールな頭脳の持ち主かと思われるのかも知れない。
それを避けるためにぼくは1970年代はハレ氏といっしょに「木の葉経」という文芸同人誌を出したり「青洞記」という個人紙を出していた暗い10年間があったのだと言う。
さて、日比谷派遣村はついに幕を閉じたというので何か変だと思っていたらボランテイアに参加した済世救民思想のAの野田と「もやい」の湯浅のあいだに流れたメールを発見して、何かある側面を見せつけられたのだが。それは河上という皆さんは知っているだろうけれど今や伝説のネットワーカーとあるオフ会でぼくは彼が京大で専攻した言語学なるもののある種異様な才能に少し驚いたのだけれど、特に誘惑や羨望といったものは何も感じなかったが、ただ彼の隣りにいた「A2」の主人公だけがその後ずっと気がかりに思うことがあって、どうしているのだろうと思うことがあった。ここで「気がかりに、」という意味は、彼が「こんな風に自分のことを話すのは初めてだ、」と言ったことから来るのだろう。さあもういいかも知れない。いかに生きるべきかとか、なにを成すべきかと考えるよりも先に現実はわれわれをすでに何処とも知れぬ暗黒の彼方に連れ去っている途中なのだから。